(非常に久しぶりの更新です!)
(近況報告的なものをしたかったですが)
(タイトルの男子SPが始まってしまうので)
(推敲もろくにせず公開させて頂きます)
(たぶん後で修正します)
(急いでで書いたから語り口が偉そうでごめんなさい!)
いよいよ、ソチオリンピックの男子シングルが始まる。
しばらく遠ざかっていたブログの更新を、オリンピックにちなんで再開しようともくろんでいたが、いつもの無精で直前になてしまった。本当ならば今シーズンの振り返り・・・とか、フィギュアブロガーチックなことをしてみたかったんだけれども。
とはいえ直前でないと書いて意味がないことがありそうだったので、こうして書き留めている。何のことかって、高橋選手のショートの音楽についてだ。
フィギュアスケートにそうそう興味のない方も、このニュースは結構知っているだろう。現代のベートーヴェンともてはやされた全聾の作曲家が実は作曲していなかった(しかも耳も聞こえている?)というのは実にセンセーショナル。
完全にこの騒動の巻き添えを食う形となってしまった高橋選手は本当に気の毒で、オリンピック直前でショートの音楽を今更変えられない時期に、どうしてゴーストライターは暴露なんかするんだ!と、ファンは当然ご立腹だ。
高橋選手のファンは非常に熱いが、かといって暴走しているわけではなく、この怒りはごもっとも。ただしゴーストライターの新垣氏も、うそをついたまま滑ってもらってはいけない、と考えての行動だったようなので、暴露したことやその時期を一概に責めるだけでは、気持ちのおさまりもつきそうにない。
高橋選手の熱烈なファンではない私でさえ、頭を抱えてしまったこの騒動ではあるが、そもそも佐村河内守が作ったとされた、「ヴァイオリンのためのソナチネ」について、私はほとんど何も知らなかった。というか佐村河内さんという人のこともよく分かってなかった。
2013年のスケートアメリカで高橋選手のSPを見て、「どうしてこの曲を使うんだろう」と正直思っていた。もっと正直に言うとフリーのビートルズメドレーのこともそう思っていた。まあ、これは高橋選手の調子がいまいちだったことが主要因かもしれない。
そんなわけで続くNHK杯では、どこまで高橋選手が立て直してくるのか、その点を重視して観戦していたところ、彼はいわゆる神演技、コーチのモロゾフが号泣するほどの(その光景は多くのファンを爆笑、またはドン引きさせた)素晴らしい滑りで見事に魅せた。それとともにやっとこの曲の良さというものが伝わったといっても過言ではない。
ちょうどその時なのか、もしくはそれと前後して、私はこの曲を全聾の日本人の作曲家が作ったことを知り、この曲に同じく日本人で評価が上がっている宮本賢二さんという振付師が振り付けたという話を聞いたと思う。本調子となった高橋選手の演技を見て、この話を聞いて、私は「なるほど、音の聞こえない人が作った音楽を踊って、その踊り・滑りで音楽が聞こえるかどうか、今回のSPはそこが魅力なのかもしれない」と勝手に解釈していた。非常に美しい話ではないかー。
実際のところどうかはわからないが、もしそうであるならばこれはよっぽど高いレベルのスケーターで無いと成し得ない挑戦で、高橋選手は相応し過ぎる選手であると思う。
それからGPファイナルの欠場、全日本の不調と続き、高橋選手の万全の演技への期待は、ソチオリンピックへと向けられることとなった。で、ここに至ってのゴーストライター騒動である。
私の勝手な解釈は、ゴーストライターが作曲したということによって無残にも崩れ落ちる(まあ勝が手に解釈してるだけだけど)。高橋選手本人こそ気にしないと言ってくれてはいるが、どういう心持で見ていればいいのか!やっぱり勝手にだけれど、私は新垣氏の会見の日、1日中考え続けた。
そこで思った勝手な結論だけれど。
この曲はそもそも義手の少女に捧げるという意図で作曲されたのだそうだ。全聾の作曲家が義手の少女へ、まあ佐村河内氏の意図は浅はかではあるが非常に世間に受けやすそうなお話だ。しかしそれは嘘、本当は新垣氏が作っている、しかも佐村河内氏はその少女の家族にいろいろ強要して、拒否されると関係を断つという屑っぷりをさらしてる。また少女とその父から発せられた言葉からするに、少女は佐村河内氏が作っていなかったことにショックは受けたものの、コンクールなどで伴奏を務めてくれていた新垣氏が本当の作曲家だったことを知り、嬉しかったそうである(すみません、ちょっとニュアンスは違うかもしれないですが、後でリンク探します)。新垣氏は自身が面倒を見ていた少女に騙す形でいたこともつらかったであろうし、悔しかったであろうとも思う。佐村河内氏への怒りや、自分への失望、悲しみ、そんな思いがあるだろう。計算高い佐村河内氏の俗な欲望と、恐らく抱いただろう本物の才能への嫉妬、この曲を評価した人の好意、羨望、作曲された少女の純粋な思い・・・もしかしてびっくりするくらいドラマチックな曲ではないか・・・?
すごく勝手だけれどここまで妄想してみて、私は「全聾の作曲者の曲」よりも、ずーっとずーっと人間の性や業みたいなものを感じる、壮大なテーマを抱え込まされた音楽のように感じてしまった。お美しいヒューマニズムよりも、もしかしたらずっとずっと滑ることが難しくて、そして面白い音楽なのかもしれない。
高橋選手本人や関係者の方がよもやこう思っているとは、もちろん考えていない。しかしながら「全聾の作曲者」の曲として紹介されたときに視聴者が勝手に思い浮かべるイメージと同じに、私はこの妄想を抱えながら高橋選手の演技を見ることになるだろう。
稀代のスケーターの集大成の演技に、ものすごく期待してひとりわくわくしている。